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<ノベル>
その旅館は、ムービーハザードというには余りに地味でひっそりしていた。夕闇に沈む岳夜谷温泉郷から、虫の音を聞きながら小径をさらに深山へと分け入る。突然、ぽっかりと木々が途絶えたかと思うと和風屋敷が佇んでいた。
黄昏の翳に紛れて細身の姿が森の縁に立っていた。四幻ヒジリの紫の瞳が油断なく屋敷の周囲を探るが、一見どこからみても普通の屋敷だ。
温泉でゆったりしておいで、という弟妹達の言葉が本当に……は、まあならないだろうな。
カサと落ち葉が幽かな音を立てる。いつからそこにいたのか、女が一人、翳りから出て来た。
女はにこりと笑ってヒジリに会釈した。
「ここの負の気配が心地よくて、先刻からここに。詳しい話しは――確か」
呪い屋の女は黒髪に真珠の肌、纏う着物には緋色の地に深紅の曼珠沙華が咲いている。ヒジリの話しにこくこくと細い顎を傾けて頷く。妖しげな風情なのに露れた笑顔は普通に愛らしかった。
「殺人鬼の女性――エキセントリックでいいんじゃないか?」
人影がもう二つ。もの柔らかなトーンでリョウ・セレスタイトが飄々と意見を述べた。隙のない服装の優男だが、警官だった。但し少しばかり特別な警官である。
最後の一人は40歳ほどの渋い男だった。目立たぬ黒の着流しに草履、ぼさぼさの長髪。腰には業物。彼はしかし呪い屋を見ると、
「おや。胡麻団子愛好会の……久しいな」
「清本さん、お元気そうですね。最近団子は食べていますか?」
団子の話しでくつろいだ後、ふと屋敷を見ればいつの間にか旅館の窓にぼんやりと燈が灯っている。事情を知らなければ客を出迎える暖かな灯火に見える事だろう。
「さて、場所は確認できたわけだが……誰が最初に行く?」
ヒジリが皆を見る。作戦を話し合う皆の声がぼそぼそ零れた。
野山に月光が青白く降り注ぐ、秋の宵のことだった。
1.剣は語る
……それで私が一番というわけだ。
四幻ヒジリはさっさと旅館の玄関にやって来た。ぼんやり灯る死角の……いや四角の灯りに羽虫が数匹戯れている。カラカラと戸をあけると、中は薄暗い。電気のかわりにあちこちに灯火が揺れていた。古いが磨かれた木の床に、水墨画が描かれた衝立が堂々と鎮座していた。
後ろ手に閉めた戸はもう二度と開かない気がしたが、彼は試すことはしなかった。戸が閉まった途端、衝立の後ろからひょっこりと女が現れたのだ。
「いらっしゃいませ」
綺麗な女だった。年の頃は二十歳を幾つか越えたほど、着物をゆったりと纏って襟から覗く素肌がそれは白かった。
「あの……」
「お泊まりですね。どうぞお上がり下さい。ただ今はサービス期間でお値段もそれはお安くなっていますの」
素足に滑らかな床が心地よかった。一定間隔で長い廊下に置かれた灯火は女が脇を通ってもこそとも揺れない。やはりこれでも生き霊なのだとヒジリは女の滑らかな項を見つめて思った。
当然の如く湯を勧められて、露天で手足を伸ばす。竹垣に囲まれた岩風呂はほどよい広さで、野趣溢れる庭のただ中にあった。
ぽちゃり。
お湯に手をくぐらせれば水輪が広がる。
突然、ひやりと手を置かれてヒジリは肩を竦めた。
女はするすると襦袢のまま湯に入ってきた。ぴたりと寄り添う女をさりげなく押しのけて、ヒジリは後ずさった。
「あらあら。初々しい殿方ですこと」
「殿方というか、私はですね」
「れっきとした殿方ですよ。それじゃ流しますわ」
油断も隙もないですね……腰にしっかり手拭いを巻いて、湯船から上がる。引き締まった身体をお湯が伝って落ちた。
「さあ、隅々まで洗ってさしあげますわ」
「いや、背中だけで結構です?!」
全身洗われるのはいくらなんでもちょっと困る。焦った瞬間、盆の窪に幽かな痛みを感じた。振り返ると女は簪を手に戸惑っている。
「なぜ……はずした?」
「いや、だから私は男ではなくて、人でもない」
女は聞いちゃいなかった。簪の尖端が月光にチカリと輝く。
「いい男は皆死ね!」
誉め言葉なのか何なのか。雑言を浴びせられつつも、ヒジリはするりと女の簪を避けた。
女の人って、こういうのなんだな……。
襦袢が密着した肌から目を逸らしもせず、彼はひょいと女を押した。石を敷き詰めた洗い場に女が無様に倒れた。乱れた裾からのぞく足首が細くて哀れだ。
男ってこんな人に鼻の下伸ばすんだろうか……。
ヒジリの鼻の下は伸びそうにもなかった。彼は淡々と、しかし油断は怠らずに女をじっくり見下ろす。
「私、剣だからな。姿形は男だが人じゃない、そんな簡単に死なない」
土の剣の守護者は紫の瞳で女をしんと射抜いた。首の傷はもう治癒していた。生き霊は戸惑っている様で、じりと後ずさりしてそれでも簪を握りしめる。ちょっと考えて、ヒジリは付け加えた。
「あなたが何故殺そうとするのか、聞いてもいいか?」
虫がまたどこかで鳴き始めた。
「それとももっと、私とやるか?」
いつの間にか彼の手に握られていた土の剣を見て、生き霊は唸った。言葉とは裏腹にヒジリの声は優しい。女は胸を隠す様に腕を身体に巻いて、尋ねた。
「姿は男なのに、男ではないのか」
「そうだ」
「間違えた……のか」
言葉が消えぬうちに、しゅんと濃密な湯気が立った。
ヒジリは女が消えた辺りをしばらく見つめていた。それが夢でなかった証拠に、洗い場はまだじっとりと濡れていた。
2.色仕掛け
男にも色仕掛けというものがあるのだろうか。
リョウ・セレスタイトは昔から女に不自由したことがなかった。スラリと端正な身体つき、通った鼻筋。青銀のヘアは風にさやと揺れて女心を惑わす。
薄い微笑を浮かべて、リョウは玄関に出た美女を見た。
「お前、一人なんだろ……男泊めていいのか? 」
「ここは、旅館ですから」
「湯殿にいい女が出るらしいって聞いたぜ。お前のことか? 淋しいなら一緒に眠ってもいいんだぜ」
リョウはさりげなく先を行く女の肩に触れた。生き霊というが、肉は軟らかく充ちている。
ふふ、と振り向いた女の瞳は蛇の様に妖しかった。女が殺人鬼だとしても、滅法色香があるのは真実だ。むしろそんな特殊な嗜好を持ち、しかも生き霊である女と駆け引きを楽しむのも趣がある。
「綺麗な殿方となら」
口付けはむせる様に深くて熱かった。むっちりとした口唇は逃げもせず、身体も素直にリョウに従う。この女は男好きで悦ばせて殺すのがもっと好きなのか。大迷惑なハザードもあったものだ。
女はしばしの後、漸く離れて襟元を会わせる。
「あとは夜にとっておきましょう。必ず部屋に参りますから」
リョウはあっさりと女を手放した。嘘付きめ、とは口に出さないでおく。
女は嬉しげにリョウに湯浴みを勧めて来た。
先に温い湯を楽しんでいると、直に襦袢ひとつになった女がきた。
二人湯船に浸かれば薄物はべっとりと肌に纏いつく。女は荒い息をしながら身体を寄せて来る。首の後ろに腕が回された。その襟足に傷を見た様な気がした。
「おい、この背中は?」
「ナンデモナイノヨ。無粋なことは聞かないで」
女は微笑み、唇が再び触れあう……ことはなかった。
次の瞬間、力任せに頭を湯に突っ込まれて結構驚いた。生き霊の割りには力が強い。いや、生き霊だからなのか……。
ごぼごぼと湯に泡が立ち昇る。だがリョウの引き締まった体躯はしなり、女を払いのけた。
「そっちこそ無粋だな」
リョウの青色の髪から湯が滴る。
生き霊は特殊警官の彼には勝てなかった。
「せっかくの色女が台無しだぜ。大人しく俺の言うことを聞いて、少し眠れ」
女の両手首を掴んでリョウは言葉に力を込めた。ヒプノシスがどれほどこの生き霊に通じるのか……。
催眠能力(ヒプノシス)は、本体の女相手なら用意に聞いただろう。だが生き霊はとろとろ目を閉じるものの、執念が勝ったらしい。血走った目をかっと見開いて、それはリョウの首に両手を伸ばした。
「そんなに俺と楽しみたいか……」
リョウは予め隠しておいたナイフを、岩の陰から取り出す。仕留めた途端、ジュッと濃い湯気が立ち昇って女の姿はかき消えた。
このどこかで、あれの本体が眠ってるんだよなァ……。
どんな趣味の女だろうと、生き霊よりは人間の女がいいに決まっている。旅館を去るときは妙に名残惜しかった。
3.人を呪わば
「生き霊は女には興味ないのですかねえ」
鬼灯柘榴は現れ出でた植村直紀に微笑みかけた。使鬼申を植村に化けさせたのは単なる趣味だ。
「これも一興」
4度も殺さねばならぬ程強い妄念を持つなど、余程男に恨みでもあるのか。それならよいお得意となったかもしれぬのに……。
「ついでに営業しますか」
使鬼は術者に寄らねば喋れぬもの。申神が化けた植村は美しい目をきょときょとさせた。
柘榴の使役する十二の異形は影に潜む。喚びだしたもう一体は未で、その幻覚に紛れて柘榴は申についてゆく。
『……泊まりたいのですが』
女が現れると、柘榴は植村の話し方を思い出しつつ申に喋らせた。
「どうぞ。佳いお湯もありますよ」
此の度の女は戦法を変えたか、さりげなく植村の腕をとった。申はきょときょと柘榴を見るが、幻覚でゴマカシている身としては咳払いくらいしかできぬ。
「風邪ですの? お湯に浸かればきっと良くなりますわ。さあさあ」
積極的ですね……。
余程植村の姿が気に入ったのか、早く殺したくて仕方ないのか。
「お背中流しますよ」
女はフラフラとやって来た。聞いた所では既に思念の半分は消失したらしいから多少は本体に影響でもあったのか。
『はあ……宜しくお願いします』
腰にしっかり手拭いを巻いて、申は檜の腰掛けに落ち着いた。申の擬態である証拠に、胸に契約の証の烙印が浮かんでいる。
どうも禁忌を見ている様な……柘榴は少々遠慮しながらも仕事なのでと、植村の裸体を見た。
女は重ねた手拭いを脇に置くと、湯でいい具合にピンクになった植村の背に石鹸を泡立てる。申がピクリと反応したのが面白かった。
「流しますね」
言葉とは裏腹に女は手拭いの山に手を突っ込んだ。電光石火、その手を振り上げる。肉切り包丁が勢いよく振り下ろされた。
ドカ。
首筋に違わず撃ち込まれた刃は、本来惨劇を呼ぶはずだった。
だが――申はすんなりと包丁を引き抜いた。そして手に持った包丁と女を植村らしい困った表情で見比べる。
『どうしてこんな事をされるのですか?』
似非対策課だと柘榴は可笑しかった。植村は偽物で裸で、相談者は生き霊だった。
「……なぜ死なない?」
『こんなことをしても貴方の思いは晴れることはなく、永遠に繰り返すことになりますよ?』
「お前に関係ない」
『銀幕市の対策課では恨み晴らし屋も斡旋していますよ』
……嘘だ、多分。今度売り込みに行ってもいいかもしれないが。
『柘榴などどうです?』
「呪い屋?」
そうそう、こんな不毛なことはやめなさい……。
柘榴は右手から呪刀を取り出した。銘は紅雨……。そのまま未の帳から姿を現す。
「誰? ここは人ひとりしか入れぬはず?」
「はい、間違っていませんよ。貴女をずっと観察していたいけれどそうもいかないから。できたら鬼灯のこと思い出して下さいね」
ひと思いに生き霊を断つと、濃い白い靄となって霧散する。
「妄念がひとつ消えましたね」
お前達、負の気配は存分に吸いましたか……?
呪い屋は使鬼達に語りかけた。
4.斬られ屋橋三
「そういや、昨日のあれは」
昨日居候先のテレビで見た『さすぺんす劇場』を思い出す。旅館の敷居をまたぎながら、清本 橋三は未だに理想の死に方の夢想から逃れられずにいた。
出てきた女が出鱈目に美人だったので、今度はこの女に迫られ殺される様子を想像する。
――殺人鬼 vs 斬られ役。
それ、終わらなくね?とリョウに言われた。
まあ、終わらぬかもしれぬのだが……終わらせねば。
ところで女の最後の思念はすぐに橋三を風呂に案内した。蝋燭や灯火が揺れる廊下は曲がりくねって屋敷の奥まで続いている様だ。光がある分、影が深く昏い。この奥のどこかに女の本体が眠っているのだろう。最後のこやつを倒せば目覚めるというが。
湯船に浸かっていると重い花瓶が脳天に炸裂した。陶器の欠片が頭に零れて、湯船に髪の毛が広がった。枯れ葉が一枚、ひらりと湯船に落ちる。
「ふぅーっ」
橋三は骨張った身体をぷるぷると振るわせて女を見た。悠々と洗い場に腰を下ろすと、ざあっと湯を被って欠片を落とす。
「一回死んだな」
「………」
「背を流してはくれんのか」
背後に女の気配がする。だがしゃぼんの代わりに柔らかな女の躰が背に触れた。首っ玉をぐいと抱かれ、剃刀の刃が閃く。
「無体な……綺麗な女の腕の中で死ぬのも悪くねえ、か」
ガクリ。
女の腕からずるりと橋三の身体が滑る。
「……一幕終了。今のはどうだ?」
女はものも言わずに引っ込んだ。仕方なく自分で身体を洗っていると、今度は薪割りの鉈を持ってやって来る。
「ほう。俺の好きな得物ばかり、気が合うな」
返事の代わりに鉈がふっと橋三を掠める。髪の毛が幾筋か千切れて飛んだ。
「覚悟!」
「うぅっ」
鉈が打ち下ろされる。橋三は気持ちよく斬られた。
「お、俺としたことが……」
身体を捻ってどうと倒れ、数十秒経過後、また立ち上がる。
4番目の女はもう、背中を流すことなど忘れた様だ。血走った目で次々に凶器を持ち出して来る。斧、鋸、包丁……そのたびに橋三は斬られまた起きた。幾度も幾度も……。
「そろそろ気も晴れたであろう?」
「………死なないのか」
「そもそもこんな事をしていても、おまえさんの恨みは晴れないだろう。一体何があった?」
「……」
「よければ俺が背中を流してやろうか?」
つい口から出てしまった言葉だった。女は素直に腰掛けた。するりと襦袢を滑らせて惜しげもなく白い背を晒す。橋三は若い女の肌の眩しさよりも、無数の傷に驚いた。これはこのムービーハザード故か、それとも……。ぴと、と傷の一つに指を押し当てて尋ねる。
「痛まぬか?」
女は少し震えたが、静かに首を振った。
そこで橋三は石鹸を泡立てると丁寧に背中を洗い始めた。不思議な事に、傷は洗うとだんだん薄くなって消えた。橋三は首を傾げたが、一つ一つ傷を洗って消してゆく。
傷が癒えるたびに、少しずつ女の躰が透き通る。終いには透明人間みたいに景色が白く透けて見える。
「あと一つ。これで終わりだ」
最後の傷と共に、生き霊は跡形もなく消えた。
5.顛末
「ああ、あのムービーハザードですか?」
灰田汐に問われて、植村は思い出した様に赤くなった。
「旅館はそのまま残ってしまったみたいですね」
「え?」
「いや、事件は解決。今はサスペンス旅館として安全に機能しています。よくは知りませんがテーマパークみたいなものでしょう」
その旅館、『色香』には4人の襦袢姿の美女が妖しく接待してくれるという。女は目覚めたが、4人の妄念も実体化してしまい、安全に色っぽいスリルを楽しませてくれるらしい。宿泊料金は跳ね上がったが割と人気があるそうだ。
柘榴は店の上がり框でそんな新聞記事を読んでいた。
(「ふーん。あの女の恨みって結局何だったんでしょうかねえ」)
誰かが戸を叩いて、柘榴はくたびれた新聞を脇に置いた。
「はいはい。どなたでしょうか?」
開いた戸口からいっぱいに朝の光が差し込む。見覚えのある綺麗な女が会釈した。
「呪い屋さん?」
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クリエイターコメント | 色っぽい話しにしてみましたが、一部ご期待には添えなかったかもしれません。 少しでも楽しんで頂ければ嬉しいです。ご参加有難うございました。 |
公開日時 | 2008-10-05(日) 12:20 |
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